■なんでわざわざハナシを『政治運動』に限定しておられるんでしょう。
どうやらウチダ先生には“
「グローバリゼーションの申し子」だから、「できるだけコストをかけずに最大の利益を上げる」ことを生きる上での基本原則として教え込まれている”と思われてるっぽい『いまの若者たち』としてはそのあたりがちょっと気になります。
わたし達の『世代』のほとんどは『できるだけコストをかけずに最大の利益を上げ』ようとしている年上の方々の様子をみるともなしに
伺い 覗いながら、それってどうなんだと訝しく思ってたような気がするのだけど、違うかな。そもそも『グローバライゼイション』の周りで踊ってらした方々はむしろ『かつての若者たち』だったハズ。
もちろんウチダ先生はお考えがあって、あえてそう話の流れを絞ってみせたんでしょうけれど、あんまりフェアなやり方じゃないような気がします。六〇年代に政治運動があれだけの高まりをみせたという一番の理由だって「あいつもやってるから」や「海外では常識らしい」だったんだろうし。
ただ勢いや量の問題はともかく『質』の部分、更にそうした運動に関わっていた方がそのあとに他の分野で積み上げてきた実績は知らないからといって無視できるレベルではないのは確かだし、“
ある政治的運動の歴史的な価値は、祝祭的な場面における動員数や、そこで破壊されたものの規模によってではなく、「非祝祭的後退戦」を黙々と担う「弔い役」の仕事のていねいさによって決まるのである”というお言葉には説得力があります。たぶんそれは本当のことなんでしょう。
だって『政治運動』に限らず、たいていのグループ・ワークってそうだもの、部活やサークル、教会、たぶん会社、それにもちろん家族、恋愛にだってあてはまりそう。
ってことは、これまでわたしが帰属してきた集団のなかで、こつこつと「後片付け」をして「非祝祭的後退戦」をこなしてこられた方々に(お顔のわかる範囲で)感謝しないと。
これからなにかの集団に加わるときは自分がそこで「エンドレスの気鬱な冬」を過ごすことができるかどうかを、まず考えることにしよう。もちろんそこに居る人達がどちらなのかも見極めなくちゃいけないんだろうけど (とたまには真面目なふりもしてみる〆
そっか、昨日の“
問題のほとんどは実は「質の問題」ではなく、「サイズの問題」なのだが、そのことに気づいている人はあまりに少ない”ってオコトバはココにつながるのか (違ゥ〆
✽✽✽04/27/06✽✽✽