√絵を描くのがご趣味のT.Hセンパイと、これまた絵が得意な後輩W君の会話をよこで聞いていてなんとなくわかったこと。
絵の描き方って二種類あるのかな? はじめから完成した姿がみえていて、大理石から堀りだすようにして仕上げるやり方と、骨組みからはじめて表面にいたるまで色や線を順番にくみ上げていく方法と。
わたし達はといえば、頭足人や絵描き歌のレベルで進化がとまったまんまのシーラカンス状態なので、あくまでもアタマでわかったような気分になってるだけなんですけどね、なんとなくこのアイデアはいいトコロをついてるような気がする。
敬愛するT.Hセンパイいわく「
描いてれば誰でもうまくなるよー」とのコトだけど......そこで描き続けられるってそのこと自体が才能なんですよ、たぶん。まあスポーツや音楽なんかと同じでデキる人はその状態が『自然』だし続けることも別に苦にならないから、それを努力だなんて思ったりしないんでしょうね。
ただ才能や能力の有無とは別に、ただ継続するだけでもみえてくるモノというのも確かにありますね。このブログのために自分で文章をまとめるようになって、はじめてわかったことが幾つか。縦書きと横書きの違いとか、漢字と平仮名についてとか色々と。
なかでも一番意外だったのは『書いてあること』よりも『書いてないこと』の方に文章の方向を決める力があるってことかな。
そんなのどれも当たり前だろ、って思わないでくださいね。そんなコト考えもせずに成長したわたし達みたいなタイプの人間って意外に多いんですよ。
『書かない理由』にも二種類あって、ひとつは文章の流れにそわない事柄に触れないケースで、こっちのほうは割とよく見かけます。ファッション誌やバイクの雑誌なんかでは特に多用されてます。どちらも広告が多いから、あんまり正直なことは書けないせいかもしれません。お得意さんの悪口を書くのは嘘を書くのと同じでやっぱりルール違反なんでしょう。
だからあえて『そこのところ』には触れない、ただ読む方に一通りの知識があれば『書いてない』ということはちょっとその部分がマズいのかなとわかる。文章ではないですけど小林よしのりサンの『ゴーマニズム宣言』なんかでも使われてますか。
もう片方はあえて『書かないこと』で、その欠けた部分へ読み手の意識を誘導する技法、小説とかフィクションであることが前提の文章で用いられてることが多いみたい。
こっちのほうはまだよくわからないんですけど、たとえば『愛してる』なんてベタで抽象的なことがらをそのままコトバにするとかえって伝わらないので、まわりの状況?や流れだけを描いて『ポイントになるコトバ』は読んだひとのアタマのなかに自然発生するように仕向ける方法なのか、な?
それとは別に作品の世界を読み手の周りに展開する道具として、疑問や不安感、欠落感が使われることもあるかも。村上春樹さんの一部の作品なんてすごくきっちり『書き落としてある』から本を閉じたあとでも物語の世界(の感覚)に日常生活の方が引きずられてしまったりするし。
<-2,200g / -200g>
ほとんど誰にでも扱えるコトバですら一年間でこんなに色々気がつくことがあったんだから、一定の才能や能力が要求される絵画や音楽の世界ってもっと奥が深そう。
同じ一枚の絵をみても、毎日のように絵を描いてる方だとわたし達が見過ごしてしまう部分から色んなことを読みとれるんでしょうね。
いいなーっ、不公平だ (マテ〆
そういえばT.Hセンパイは楽器の方もかなりの腕なんでした......うがっ (羨っ〆