追記:“
猫は弱い者をいじめるから嫌い”で“
ネコは小動物に危害を加える害獣。ぼくの正義感でネコを殺した”んだそうです、似たようなかんじだけど坂東さんよりはまだマシな気もする。
私だってもし独裁者かなにかになったら『猫を苛めるような害人』は一方的で偏った『私なりの正義感』に基づいて駆逐したくなるだろうし (マテ〆
✽✽✽11/20/06✽✽✽
■沖縄から転校してきたクラスメイトにこの話を聞かされたことがありました。そのときは、そういうこともあるんだろうなと重い気分になったことを憶えています。
新証言がでてきたらしいんだけど『そういうことが起こるんだろうな』という認識はかわらないし、かえってますます暗い気分になったのは、なんでだろう。
これまで集団自決命令を『歴史的な事実』として扱ってきたメディアが思いのほか無反応にみえるのは何故なんだろう。これから人手をさいて新証言の真偽や戦後史のなかでの位置づけ(と先輩たちがとってきたスタンス)を検証してくれるんならいいけど、あまり期待できそうもない。
匿名(あるいは無名)で報道に携わってきた方々はともかく、大江健三郎さんにはしっかりとしたコメントをお願いしたいな。
父が長い休暇をとれたときに好んで読み返していた作家さんだというなんだか枯れた印象しかなかったんだけど (あと一部の作品の雰囲気が、どことなくあの The World Is Mine に似てるような気がするとか) 若い頃は社会的な影響力を意識した文章や作品が多かった人なんですよね、大江さん。
公的な発言をする人の『誠実さ』っていうのは、問題が熱く騒がれているときにどれだけ明晰で的確な意見を述べるかではなくて、世代や状況が入れ替わったあとで自分自身の発言(とその結果)にきちんと向かい合うことができるかどうかじゃないかなという気がします。つまりそこまで想像した上で口を開いてほしかったり〆
■坂東眞砂子さんとこの化け猫騒動について先週別の項に追記したら、いくつかの反対意見をコメントやメールで頂きました。
(cf.共同通信@excite:「子猫殺し」に抗議相次ぐ 坂東真砂子さんのエッセー[LINKROT]
たしかに坂東さんが彼女の所有物である仔猫たちをどう扱おうと他人がとやかく言うことではない。わが身を省みてから彼女に石を投げてはどうか? という趣旨のご意見は(ある程度まで)もっともだと私は思います。
ただ彼女は(はじめのエッセイで主張しているように)自分自身の手であえて命を絶っているわけではなく、実際には生きたまま無防備な仔猫たちを崖下に抛りなげているだけで死体すらみていないこと、また『告白エッセイ』だけでなく騒動にたいして返されたコメントでも『タヒチの風土』をしきりに強調しているのがなんだか納得できません。
こうした不自然な倫理観ってある特定の状況にある方たちの一部に共通してみられるような気がするんですけど、どうでしょう。
つまり外国(自分が育った文化圏とは切り離された別の場所)でそれなりに長期間、生活しているけれども言語やコミュニケーション・スキルの壁に阻まれて現地の伝統的な文化や社会とは(表面的にはともかく)うまく接触できずにいる人たちにみられる傾向じゃないかと思うんです。
日本で暮らしている外国人の知り合い(の一部)や半年とか長くても二年くらいの留学に行った友人に、そうした『危機』を経験した人が幾人かいます。自分自身を省みてもそれに近い状況には覚えがあるし。
外国人(いわゆるガイジン)コミュニティとか留学先の寮みたいな閉じられた人間関係や、未知のものに囲まれているために生じる奇妙に肯定的な開放感によって、本来所属している集団の倫理から個人が切り離されたあとの空白状態がその正体なのかな。
そこで現地のコトバが堪能だったり敬虔な信仰の持ち主だったりする人は代わりの倫理コードをすぐに確立できるんだろうけど、ほとんどの場合、それは無理っぽい。
なんだかまとまらなくなってきたけど、坂東さんのやたらと大げさなコトバ遣いや奇妙な自己肯定は『タヒチの風土』じゃなくて『風土の不在』に由来するんじゃないか、とそういうハナシ。あと仔猫を殺すコト自体とそれを公言することの違いについて、先週みた野村萬斎さんの『附子』と絡めて書き足したいけど、明日の朝おきたら全部忘れてそう......、っていうかこの項全部消すかも〆
追記NOBODYさんが渡嘉敷島集団自決について“
悪いのは戦争、とか書いて終わるのは簡単なのだけど、それは、『戦争』っていう責任の取りようのない曖昧な単語のところへ責任を持って行っているだけで、そこにはなにもない”とコメントしておられました。
でも多分たくさんの人たちが悪意なしに、むしろ善意から『戦争』に原因をもっていってしまうんだろうな。少なくとも私はそうだったし〆
追記:さっき
『ねこがまねく』の項に続報として書き足したこととは別に、坂東真砂子さんが例としてあげている倫理絡みの事柄にはなんだか違和感があるのでこちらにもメモ〆
(cf.毎日新聞@excite:<子猫殺し告白>坂東さんを告発の動き[LINKROT]
坂東さんが『海外在住』なために『倫理レス』な状態に陥っていたことが、今回の件では遠因(のひとつ)としてあるのではないかというハナシ、あれは間違ってたかもしれません。今回毎日新聞に寄せた文章のなかで、生命倫理を論じながらわりと安易に『ナチスの政策』を例としてひいておられました、『海外』に限らずあたりまえの話ですが、批判に答えるときや対話の最中に相手のことを『ナチス』呼ばわりするのはそうした事柄について真剣に考えている場所ではありえないハズの発言です。そこで話がおわっちゃいますから。
トライエース^^^さんがくださったコメントも坂東さんがあまり深く考えずに『ナチス』という便利なフレーズを使っていることを指摘しておられます (違うかもしれませんけど〆
坂東さんはご自身のお書きになった文章を誰かが読んでいるというあたりまえなこと自体、なんとなく忘れてらしたんじゃないかと心配になってきました〆
✽✽✽09/22/06✽✽✽
後半部分に続報:バカ女どもめって言いたいだけのような気もします。
太田博昭さんが言うとおりの症状は確かにあるんでしょう、でもそれって別にパリの風土病じゃなくてNYでもLAでも、ソウルでだってみつかりそう。現地の言葉が判らなくてローカル・ルールや地元の倫理から切り離された人間は誰だって不安定になるだろうしさ、そこであえてパリとつけるほどパリがひどいとは思えない、長期滞在希望な異邦人への対応は京都よりマシだって聞くけどな。
どちらかっていうと診療者やご家族とか、患者さん以外の方の『願望』がうみだしてる『病』っぽい、でもまあ『なに考えてんだか』と直裁に言うんじゃなくて『
パリ症候群』なんて言い回しを考えるあたりはすごくパリ、っていうかフランスっぽいからそれでいいのか (マテ〆
✽✽✽10/25/06✽✽✽