√蜜柑ってなんか懐かしい味がしますよね、そのあたりが中毒性の秘密かも。
一昨日だったかなウチダ先生のトコの裏BLOG?で
“存在しなかった過去の経験は「言語化できない」(当たり前ですよね、存在しなかったんだから)。だからこそ、それは「トラウマ」たりうる(人間というのは「思い出すことのできない過去の記憶を抱えている」というかたちでその人格を成り立たせているわけですから)。
だから、人間は「存在しなかった過去」を「思い出すことのできない過去」として記憶することになる。”
という一節を読んで以来、その言詞の群れがわたし達の間でリフレイン(フランス語だとルフラン?)してます。
たぶん先生の仰ってることの精確な意味は誰ひとりわかってないし、なんとなくわたし達の理解能力を超えたアイデアのような気もしてたり。
だけど喉につきささった小骨のよう、いやそこまで明確じゃなくて夏の夕暮れにまとわりついてくる羽虫の群れみたいな感じでひっかかってるんです。
もしかしたら『物語』の役割ってそこにあるのかも、とか『予測脳システム』って実はこの現象?の影なんじゃないか、とか(逆か)、ウチダ先生が表BLOGで引用しておられた“
述べて作らず”が千年の座標軸として機能できたのもそこのところが、人の本性にかなってたからなのかとか(以下略
んー、虚構の脳内再生って人間以外の動物にもできるのかな?
なんだかまとまりのない文章でごめんなさい、バカヤマ周りの方にはわかると思いますけど明日までにやらなくちゃいけないコトがまだ終わってなくて、でもそんなときに限ってこういう気になるアイデアを見つけてしまったりして、なんでなのかな。
逃避?
......そういや昨日は部屋の片付けが、いつになくはかどってたっけ〆
もちろんこの忙しいのにA la recherche du temps perduなんて読んでませんよ、タイトルはちょっと見栄をはってみただけです〆
追記:すいません、これも見栄です。時間があっても原書は無理、翻訳でもちょっと厳しそう......〆
続報:そんなわけで『アタマのなかを流れる時間』と『現実の時間(という表現が物事をややこしくするのかもしれないけど)』の位置関係について考えていたらウチダ先生が今日付のBLOGで“
想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が、ほかならぬこの現実にリアリティを与えている”と述べておられました。
そっか『先生(文字通りね)』がそうおっしゃってる位だから、あながち何も埋まってないところを掘り返してるわけではないのかも。やっぱり現実って仮組されたモデルがないと認識できないものなのか、な。で、そのときの視点?が現在にあるわけがない、と〆 11/09/05
*なに言ってんのかさっぱりわからなくて当然です、わたし達自身わからないことを『将来のわたし達』へ渡すためにメモしてるだけなので。
それにもうすぐ九州場所なので寝不足のアタマが浮き足だってるんです、ゴメンナサイ〆